TOHO見聞録1970/トップページ

これが1970年の演奏旅行で66日間かけてまわったルートだ。訪問先は

ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、イタリア、オーストリア、スイス、西ドイツ、イギリス、オランダ、フランス

の計13カ国。今は東ヨーロッパの地図も大きく変わっているので、今の地図に変換すると訪問国数はもっと増えることになるだろう。
休みはほとんどなく、31都市で計36回の演奏会をおこなう強行軍だったが、うち２回が諸事情により中止になり、結局実施されたのは34回だった。
特に到着して初めての演奏会がいきなり中止になったのは衝撃的だった。神経質なトーサイはこの出来事だけですでに憤死しそうな勢いであった。
メンバーは学生が60名、指揮者がトーサイを含む５名、スタッフが私を含めて８名、合計73名という大所帯だった（メンバーの詳細はこちら）。

嵐の中で

　トーサイが桐朋の学生たちを連れてヨーロッパ巡業をおこなう。
　それも前例のない大きな規模で。
　そのスタッフとして私が随行することになったのは本当にたまたまだった。

　私と同年代の若手教員でこの任がまわってきそうな人材は他にも大勢いたし、私はむしろ部署的に関係の薄い場所にいたので、最初はこの話を他人事のように聞いていた。
　しかし、この計画はいろいろな面でかなり難航していたらしい。

　桐朋学園は、学校のなりたちとして少々特殊な経緯をたどっている。
　斎藤秀雄氏は桐朋の創立メンバーの一人であるが、「音楽の早期教育」「システマチックな音楽教育」の必要性を痛感し、いわば私塾のような形で1948年に「子供のための音楽教室」を始めた。

　しかし、斎藤氏の薫陶を受けたサイトウチルドレンたちは、成長するにつれて行き場を失った。
　当時の日本では音楽の専門教育を受けられる適切な高校がなかったのである。
　そこで1952年、東京都調布市にあった桐朋女子高等学校に間借りさせていただく形でみずから「音楽科」を設立することになった。

　名前は女子高校だが、音楽科は共学だった。
　１期生53人のうち、男子はわずか４人。
　小澤征爾氏（指揮）、林秀光氏（ピアノ）、堀伝氏（ヴァイオリン）、そして私、村上綜（声楽）である。
　仙川駅に定期券を買いにいっては「女子校になんで男子がいるんだ」と怪しまれ、学内では女子の勢いに押されながら、我々４人はいつも肩を寄せ合って生きてきたものだ。

　１期生が高校を卒業する頃には短大、大学と次々に音楽科が開設され、18年たったこのころには、桐朋学園は小さな音楽教室から実績ある音楽大学へと変貌をとげていた。
　しかし、18年もたつと組織はいやでも変革期を迎える。
　急激に大きくなった組織ならなおのことだった。

　学内では旧来のやり方を押し進めようとする保守派と、改革を求める若手急進派とが対立を深め、一触即発の状況だった。
　私と同年代の若手教職員は、「こんな時期にそんな無謀な計画をおこなうべきではない」という考えで団結しており、なかなか協力的な者はいなかったというのが実情だった。
　しかし、斎藤氏の決意は固く、周囲の反対に耳を貸すことなく、計画はどんどん進められていった。

　メンバーは一年前に決定された。
　1968年度のＡ組オーケストラ（当時Ａ・Ｂ・Ｃ・Ｄの４つのグレードのオーケストラがあった）の弦楽器パートのメンバーを中心に数名の卒業生を加えて編成。
　まさに桐朋学園の精鋭部隊だった。

　私に話がきたのは出発まであと７ヶ月という時期だったが、状況はもはやあとにはひけないところにまできており、ここでとりやめなどということになれば学校の信用にかかわる事態になりかねないと思った。

　結局、私はこの大任をひきうけることにした。
　直属の上司にはさんざんいやみを言われたし、気難しいトーサイと66日間一緒に旅行するなんて考えただけで気が重かった。
　嬉々として参加したというよりは、決死の覚悟で臨んだというのが正直な気持ちだった。

難題山積

　桐朋学園弦楽オーケストラは、1964年に最初の海外遠征をアメリカでおこない大成功をおさめていた。
　しかし、今回のヨーロッパ演奏旅行はそれとは比べ物にならないほど多くの困難を抱えていた。

　第一に、その規模。
　今回の旅行は前回の３倍におよぶ長期間のツアーだったから、当然膨大なコストがかかることになる。
　国際交流基金からの補助は得られたものの、それだけではまだまだ半分にも届かず、江戸英雄理事長（註＊当時の三井不動産社長）のご尽力により、経団連を通して複数の企業に援助をお願いすることになった。
　しかし実際に企業を回ってみると、当時はまだメセナという発想もなかったので、文化や芸術を経済的に支援しようなどという企業はほとんどなかった。

　寄付金集めには伊集院清三事業課長があたっていた。
　鹿児島の名家のご出身である伊集院氏は、不自由な足をひきずりながら途方もない数の会社をまわられていた。
　その辛抱強さには見ていて頭が下がる思いだったが、ほとんどの訪問先では祭りの祝儀ほどの寄付しかもらえなかったようだ。

　くわえて、当時は１ドル＝360円の時代だ。
　円は日本を一歩出れば紙切れ同然だったから、ドルに変えて持って行くしかなかったが、その持ち出しにも１人500ドルまでという制限があった。
　楽器の搬送などにも経費がかかったため、実際に使える額はさらに制限された。

　当然のことながらクレジットカードなどというものもない。
　また、国境を越えるたびに通貨が変わるのも厄介で、12進法と20進法が混在するイギリスの通貨などは慣れるまで大変だったし、国によっては持ち出さずに国内で使い切るように言いわたされるところもあった。

　第二に、訪問先13カ国中６カ国が社会主義国だということ。
　東ヨーロッパと西ヨーロッパではなにもかもが違っており、特に東ヨーロッパ圏ではどんなに綿密に計画を練り上げても一寸先は何が待ち受けているのか予想もつかなかった。
　情報収集をしようにもインターネットはおろかパソコンもなく、ガイドブックもほとんど出ていない。
　国際電話は高額だったし、もちろん携帯もない。

　まさに手探りだけで進んでいくしかない時代だった。

綿密な計画と厳しすぎる訓練

　第三に、６年前よりもさらに斎藤氏との世代間ギャップが生じている学生たちに彼のやり方がどこまで通じるのかということ。

　団体行動に完璧さを求める斎藤氏の要求は、今の時代からは考えられないほど度を超したものであり、準備段階においても、毎日のように団体管理のためのアイディアを考え出しては訓練を繰り返させた。
　その考え方の根本にあるものはドイツ式の発想で、徹底した合理主義に貫かれていたが、やらされるほうにとってはかなりストレスのたまるものであった。

　斎藤氏の練習計画は寸分の狂いもなく実行された。
　1969年９月から翌年３月までは週１回 、その後は週２回の練習がおこなわれ、その他８月中旬には北軽井沢での合宿もおこなっている。
　さらに、出発の１ケ月前から、軽井沢、上田、信州中野、広島、福山、岡山をまわる国内演奏旅行をおこない、最後は東京虎ノ門ホールで仕上げの演奏会をおこなった。

　私は心底驚嘆した。
　世界広しといえども、ここまで綿密な計画を100％実行できる国があるだろうか。
　もちろん、良いことばかりではなく、その厳密すぎるやり方ゆえの歪みは旅行期間中にも随所に現れていた。
　しかし、このような方法でなければこの計画が遂行できなかったこともまた事実であった。

　66日間という長く過酷な旅の間も、斎藤氏の要求がゆるむことはなく、毎回本番の前に３時間の練習を学生に課した。
　学生たちがいくら若くてもこれではたまらないだろう。
　案の定、メンバーの疲労はどんどんたまっていき、体調を崩す者も出はじめた。

　みかねた私は、ある日「練習をもう少し軽くしてやれないか」と斎藤氏に提案したところ、「きみは何もわかってない！」と一喝された。
　斎藤氏の言い分はこうだった。

　演奏というのはたった一回の本番で評価されるもの。
　その裏でどれだけ練習したかなんてことは聴衆には関係がないし、知る必要もない。
　学生はまだアマチュア。普通に練習してもプロには及ばない。
　だがプロの何百倍も練習すれば一回だけならプロに迫る演奏ができるかもしれない。

　それを今やらなければいつまでもアマチュアを言い訳にして終わるだけだ。
　だから練習はいくらやってもいいのだ。

　70歳に近い熱血教師の血を吐くようなこの言葉をきいて、私はそれ以上返す言葉がなかった。
　それは斎藤氏自身、これまでの人生から得た骨身にしみる教訓だったのだと思う。
　今でもこの言葉は私の座右の銘となっている。
　トーサイは知るよしもないだろうが…。

　ともあれ、７ヶ月間は矢のようにすぎていった。
　そして出発の日がやってきた。

生まれて初めて取得したパスポート。当時は数次旅券というものはなく、一回限りしか使用できなかった。パスポートには、このように渡航費用の額を申告する欄もあった。

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