10月24日(土)──晴れ
行 程 |
8:00 ナポリ出発
午前→ポンペイ観光
午後→ローマ到着後自由行動
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演奏会 |
───
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宿 泊 |
ホテル・ディアナ(ローマ)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
100リラ=約58円(イタリア)
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今日の予定はバスでローマへ移動するだけなので気が楽である。
早くローマに行ってのんびりしようと思っていたら、朝食のときになってトーサイが突然「ポンペイに寄ってからローマに行く!」と宣言した。
普段は「観光」というと「体力の無駄遣い」とばかりにいやな顔をするトーサイなのに、なぜか今回ばかりは頑強だった。
メンバーたちはショッピングは大好きだが遺跡には興味がないのがありありで、「これ以上疲労がたまったら演奏に支障をきたす」と激しく抵抗したが、トーサイも一歩も譲らない。
「ここまで来てポンペイを見せずにローマに直行したら、斎藤という男はなんて無教養な奴なんだと後々まで世間の物笑いの種になるだろう。それは自分にとって恥なので首に縄をつけても連れて行く」というのがトーサイの主張だった。
ここまで言われたらもう反対しても無駄だった。
結局、我々はポンペイに向かうことになったが、ふと見るとメンバーがそろってマフラーをしている。
メンバーが迷子にならないようにとトーサイから着用を命じられたあのたくわん色のマフラーである。寒かった東ヨーロッパならともかく、20度を越す気温のイタリアでなぜ?と不思議に思ってインスペクター(メンバー代表)の村井くんに尋ねたところ、「斎藤先生に対するささやかな抵抗です」という答えが返ってきた。
バスは午前8時に出発。
最初は天気がぐずついていたが、アウトストラーダ・デル・ソーレ(太陽道路の名で知られているイタリア最長の高速道路。ナポリからミラノまでを縦断する)を走る頃には雨も上がり、強い日差しが照りつけてきた。
窓際に陣取ったトーサイは暑さに耐えられず、たくわん色のマフラーで頬被りをしている。
そんなトーサイの姿にメンバーたちは大喜び。まさにささやかな抵抗だった。
ナポリから1時間ほど走ったところで、有名なカメオ工場に連れ込まれた。
といっても工場は素通り程度で、あっという間に売り場のほうに誘導される。
女店員が「コノ カメオ ヤスイヨ!」「ニホンニハ ウッテナイ カタチネ」と怪しい日本語でわめいている。
ヨーロッパ旅行はまだまだ高嶺の花であるし、それほど大勢の日本人が訪れるとは思えないのだが、わざわざここまで来る人は余程裕福な人たちで、きっとよいカモになっているのだろう。
ポンペイについては、エドワード・リットン卿が書いた小説『ポンペイ最後の日』を読んでいたので、どのような遺跡であるかは一応知ってはいたが、まさか本物が見られる日がこようとは思っていなかった。
ポンペイは今から1900年ほど前に栄えた古代都市で、ナポリ近郊にある商業都市であり、リゾートタウンでもあった。
日本の弥生時代くらいにあたるが、当時の文化は驚くほど高く、上下水道の完備はもちろんのこと。公衆浴場には床暖房まであったらしい。
その悲劇は紀元79年8月24日に起こった。
ヴェスヴィオ山の突然の大噴火により、町はわずか19時間で地中に埋もれてしまう。
当時のポンペイの人口は1万人と言われているが、人々は一瞬にして有毒ガスと煙に巻かれて逃げる暇もなく即死。さらに大量の火砕流と火山灰が5メートルという高さで街全体を覆い尽くした。
その後、ポンペイは1700年もの間、誰にも掘り起こされることなく眠り続けた。
発掘が始められたのは1748年のこと。
火砕流によって隙間なく埋め尽くされたため、ポンペイの町は1700年前の状態のまま時間が止まっていた。
その保存状態のよさは驚嘆すべきものだった。
焼かれたままのパン、居酒屋のカウンターの上に残るサイコロ、壁の落書きにいたるまで残っていたというのだからすごい。
さらに世界を驚かせたのは、亡くなった人たちの姿が正確に復元されたことである。
堆積物を掘り進めていく途中で、ところどころ不自然な空洞があることに気づいた考古学者は、「これは地中に埋もれた遺体が朽ちたあとなのではないか」と推測し、空洞に石膏を流し込んで型をとってみたところ、赤ん坊を抱えた女性やもだえ苦しむ犬など、生々しい最後の姿が次々に現れたのだという。
こうして型をとられた犠牲者の石膏レリーフは1000体以上に及び、ポンペイ内で展示されている。
ポンペイ観光は、彼らの生活の知恵が随所に見られ、大変興味深かった。
雨上がりの空に、この街を一夜にして灰で覆ってしまったヴェスヴィオ火山が、今でも不気味に黒くくっきりとそびえているのが印象的であった。
しかし、火砕流堆積物に守られて風化しなかったというこの町が、発掘された瞬間から風化し始めているという話はなにやら「浦島太郎」のようで皮肉である(ポンペイの街の再現図はこちら)。
ポンペイを出て、一路ローマへと向かう。
天候はすっかり回復し、ローマの街が見える頃にはイタリアンブルーの抜けるような空から直射日光が肌を刺すように照りつけてきた。
ローマの街のあちらこちらに残る史跡を眺めながら、バスは昼頃にテルミニ駅近くのホテルに到着した。
ホテルは3ツ星程度の、あまり上等とは言えないが日本人の団体がよく泊まる宿のようだ。
午後からは自由時間となったが、夕方になったとたん急に冷え込みが厳しくなり、さすがに晩秋であることを感じさせた。
トリニタ・ディ・モンティ教会からスペイン広場を見下ろしたあと、ローマの夕暮れを楽しみつつ街を散策していたところ、ヴェネート通りでばったりと音楽学者の金沢正剛氏に会い、熱いカプチーノをご馳走になる。
その後、アンデルセンの『即興詩人』の冒頭に出てくるベルニーニ作のトリトーネの噴水などを見物しながら街をぶらついた。
土曜の夜ということもあって大変な人出で、美しい原色で彩られたショウウインドウを見て歩くだけでウキウキしてくる。
透明な空気のローマには、こういった原色がじつによく似合うが、おそらくこれを日本に持ち帰ったら白い目で見られることだろう。
澄んだ空気、石造りの街独特の底冷え、焼き栗の匂い、エスプレッソの匂いなど、この日のそぞろ歩きで刺激された五感の思い出はいつまでも忘れられないものになりそうである。