9月26日(土)──晴れ
行 程 |
10:30 東京/羽田空港出発<JAL441便搭乗>
14:30 モスクワ/シェレメチェヴォ空港到着
着後、バスでホテルへ
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---|---|
演奏会 |
───
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宿 泊 |
ホテル・ロシア(モスクワ)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦) ※1ルーブル=約2.5円(2012年9月26日現在)
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行 程 |
10:30 東京/羽田空港出発<JAL441便搭乗>
14:30 モスクワ/シェレメチェヴォ空港到着
着後、バスでホテルへ
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演奏会 |
───
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宿 泊 |
ホテル・ロシア(モスクワ)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦) ※1ルーブル=約2.5円(2012年9月26日現在)
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出発前夜はメンバー全員が羽田の東急ホテルに宿泊した。
これは「出発の朝に遅刻者が出ないように」という、いかにも時間にうるさいトーサイらしい気遣いによるものだった。
これだけの人数なので家族の見送りも大変な数になる。「当日の混乱を防ぐため、家族との面会は前日に済ませておくように」という意図もあったのだろう。
このように先手先手を打って策を用意するのがトーサイのやり方だった。
せっかく前夜から泊まるのだから…と、夕方にはテーブルマナーの講習を兼ねた夕食会がおこなわれた。
仰天したのはデザートに出されたりんごの食べ方だった。
フォークでおさえながら4分の1にカットし、さらにそのまま皮をむいていくという非常に面倒な方法を給仕長からうやうやしくレクチャーされた。
夕食後には、関係者を集めて歓送会もおこなわれた。
メンバーが部屋にひきあげたあとは、スタッフが集まって第一回目のミーティングもおこなった。
どこまでもトーサイらしく合理的なスケジュールである。
しかし、このような予測可能な配慮が通じるのもここまでだろう。
日本を一歩出たらもう何が起きるのかわからない。
最初の訪問国はソ連。
一番手強いところからのスタートになる。
ソ連では、コンサートのマネージメントはゴス・コンツェルト、旅行の手配はイン・ツーリストといずれも国営の組織が受け持っている。
しかし両者の連携はすこぶる悪く、何を問い合わせても未確定要素が多すぎて埒があかない。
「演奏会は、モスクワとレニングラード(註*現サンクトペテルブルク)でおこなう」という以外の情報はまったくなく、どこで演奏するのかも、どこに泊まるのかもまるでわからなかった。
演奏会ができなくなったところで向こうはいっこうに困らないので、やきもきするのはいつもこちら側ばかりなのだと日本側のマネージャーである新芸術家協会の人は言う。
半ば諦めているのか、「でもまあなんとかなりますよ」とのんびりした調子で言われたが、本当になんとかなるのだろうか。
神経質な指揮者を抱えているこちらとしては楽観的にはなれなかったが、不安になり始めるとキリがないのでここはもう腹をくくるしかない。
学生たちはリラックスしていたが、トーサイはすでにかなり緊張しているように見えた。
羽田東急ホテル
羽田東急ホテルは、1964年(この年に一般の海外渡航が解禁になった)に羽田空港敷地内の唯一のホテルとして開業したが、1978年の成田空港開港にともない海外旅行客は姿を消し、1993年にはターミナル移転によってアクセスも悪くなってしまい、2004年9月いっぱいで取り壊された。現在の跡地がどうなっているのかはわからない。ベトナム戦争、日航機事故など、さまざまな歴史の舞台となってきたホテルである。現在はターミナル隣接地に同系列の「羽田エクセルホテル東急」が開業している。(2012.09.26)
一夜明けて出発当日は6時半に起床。
7時20分に朝食というスケジュールだったが、早くも数人の遅刻者がでる。
出発前からこれでは先が思いやられる。
やはり前日から宿泊させて正解だったかもしれない。
8時にホテルの玄関前に集合。
学校関係者や、羽田に一晩泊まったメンバーの父兄らに見送られてバスに乗り込み、いよいよ空港へとむかう。
伊集院課長が心配そうな顔で立っておられる。我々の出発後も寄付集めに奔走されるらしい。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
9時半、JAL441便DC8機に乗り込む。
定刻から20分遅れの10時半に出発。
飛行機が離陸したとたん、もう後戻りはできないのだと思い、本当に無事に日本に帰れるのかどうかちょっと不安になった。
機上での10時間はただただ退屈だった。
食事が二度出てきたが、西へ西へと向かっているのでいつまでたっても夕暮れにならない。
現地時間の午後2時半、薄日の差すモスクワ、シェレメチェボ空港に到着する。
モスクワとの時差は6時間だから、日本ではもう夜の8時半のはずだ。
気温は7度。残暑の東京から一気に真冬の気温になる。
汗をかきながら持ってきたコートがさっそく役に立った。
まず度肝を抜かれたのは空港の広さだった。
見渡すかぎり地平線まで空港が続いている。
そして無表情な係員。まさに「ソ連!」という感じである。
初めての外国で多少高揚していた私は、女の係員に「ズドラーストヴィッチ(こんにちは)」と声をかけてみたが、ジロリと一瞥されただけで相変わらず表情は変わらなかった。
入国審査では、パスポートの写真とすでに提出してある顔写真と本人の顔をそれぞれ3回ずつ念入りに見比べられた。
ようやく全員の審査を終えてロビーへ出ると、ゴス・コンツェルトの係員であるプードル氏、赤ら顔のニコライ氏(註*旅行中の交渉はほとんど彼がおこなった)、通訳のホー氏、スヴェトラーナ嬢が迎えに来ていた。
どの人もみな大変親切で、彼らが同行したとたん、税関もフリーパスになった。
このような場面になると、役人の権力は絶大である。
ここで初めて、今日から我々が宿泊するホテルが「ホテル・ロシア」であることを知らされる。
日本側マネージャーの中筋氏から「あのホテルはモスクワ最大のホテルだから、気をつけないと迷子になりますよ」と注意された。
予定が決まったとたん、「ダヴァイ、ダヴァイ(早く、早く)」とやたらにせかされた。
こちらは70人を越える数の団体だ。そう簡単には動けない。
せかすなら予定をもっと早くに決めてほしいものだ。
空港からは今にも壊れそうなガタガタのバスに乗り込み、車もまばらな田舎の高速道路のような道を時速80キロくらいのスピードで突っ走った。
市内に入るまでは信号も見当たらず、殺風景な眺めが延々と続いていた。
遅刻の代償
トーサイと言えば「時間に異様に厳しい」ことで有名である。もちろん、本人も絶対に遅刻することはなかった。遅刻者が出ると連帯責任となり、全員から白い目で見られることになるので、遅刻の代償はなかなか厳しかった。ツアー中は「遅刻1回につき1ドルの罰金」というルールがあった。今の1ドルならたいした額に思えないかもしれないが、当時の1ドルは高額だった。そのうえ旅行中は手持ちのキャッシュに制限があったので、東京を出発する前に早くも罰金をとられた学生にとっては痛い黒星だっただろう。ちなみにツアー中に集めた罰金で最後の日は打ち上げができたといえばどのくらい遅刻者が出たのか想像できるだろうか。(2012.09.26)
「ホテル・ロシア」は赤の広場の近くにあった。
どうやら外国からきたお客用に作られたホテルらしい。
なるほど、巨大な建物である。
ロの字型の13階建ての建物で、高さはそれほどもないが、なにしろ面積がバカでかい。
そのうえ、中の造作はすべてシンメトリーに造られていて、東西北三方位に玄関とフロントがある。
いったん中に入ってしまったら方位磁石がないとどっちへ行けばいいのかわからなくなりそうなほど広い。
お客にむやみに歩き回られたくないのか、館内案内図もなく、自分が今どこにいるのかが非常にわかりにくい。「迷子になる」というのはこのことだったかと納得。
とにかく、我々の集合場所は北出口(セーベルニ)と決めて、1時間ほど部屋があくのを待った。
部屋に荷物を置いたらすぐに、この日4度目となる食事が出てきた。
初めての外国の食事は予想していた通り大味で、お世辞にもうまいとはいえなかったが、指揮者の秋山氏によるとこれでも数年前に比べると格段にうまくなったのだそうだ。
特に貧相だったのは野菜類だ。
この時期にはもう野菜が不足してくるらしく、主な野菜はしなびたレタスの葉が1枚ついているだけだった。
あまり食欲もないので、食べ残していたら、通訳に「いらないのか?」と聞かれ、頷くと「なんてもったいない」という顔で食べられてしまった。
これで今日の行事はすべておしまいと思っていたら、午後9時に5度目の食事が出てくると聞いて気が遠くなった。
明日の予定は午前10時に朝食ということ以外は一切わからない。
これほどアバウトだと、こちらもきりきりするのがバカバカしくなってくる。
自室に戻ると、空港に降り立った時から鼻についていたソ連独特の匂いが妙に気になりだした。
相当質の悪い油で作られたと思われる国営工場製の石鹸と、トルコ系のタバコの匂いが微妙にミックスされたこの匂いには記憶がある。
そうだ。これは以前モスクワ・ボリショイ劇場が来日したとき、オーケストラピットの付近に漂っていた匂いだ。
しかし、部屋は殺風景ながらすべてが頑丈にできていて、立派なホテルではあった。
今日はシングルルームをもらえたし、ゆっくり休めそうだ。
旅の疲れを流そうとバスルームに入ったところ、フランケンシュタインの棺おけのようなでかいバスタブがあった。
ホテル・ロシア
ホテル・ロシアは、床面積約4ヘクタール、部屋数は5000とも6000とも言われるロシア最大のホテル。当時は間違いなく世界最大規模のホテルだった。1967年に完成したが、1977年に火災で一部消失。再開発のために2006年に解体された。赤の広場のすぐそばにあるので、交通の便は抜群だが(クレムリンビューの客室の眺めは絶品らしい)、館内が広すぎて迷子になる人多数。「産気づいた妊婦が出口にたどりつく前に産まれてしまった」という話もある。館内には映画館やボウリング場、2500席のコンサートホールなど途方もない規模の施設があったというが、そんなものが存在する気配はみじんも感じられなかった。(2012.09.26)