10月4日(日)──晴れ
行 程 |
08:25 モスクワ/シェレメチェヴォ空港出発<SU027便搭乗>
08:30 ワルシャワ/フレデリック・ショパン空港到着
着後、バスでホテルへ
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---|---|
演奏会 |
───
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宿 泊 |
ホテル・ワルシャワ(ワルシャワ)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
1ズロティ=約14円(ポーランド) ※1ズロティ=約25円(2012年10月4日現在)
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行 程 |
08:25 モスクワ/シェレメチェヴォ空港出発<SU027便搭乗>
08:30 ワルシャワ/フレデリック・ショパン空港到着
着後、バスでホテルへ
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演奏会 |
───
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宿 泊 |
ホテル・ワルシャワ(ワルシャワ)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
1ズロティ=約14円(ポーランド) ※1ズロティ=約25円(2012年10月4日現在)
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午前6時にホテルを出発し、シェレメチェヴォ空港へ向かう。
ソ連のスタッフとはここでお別れとなる。
いろいろ腹の立つこともあったが、別れるとなるとやはり淋しいものだ。
お互いに「スパシーヴォ・ボリショイ、ダズヴィダーニャ(ありがとう、さよなら)」と挨拶して固い握手を交わした。
なんと力強い握手だろう。
とそのとき、感極まったニコライおやじが突然強烈なハグをしてきた。
体臭といい、腕力といい、桁外れだ。まるで熊にとびかかられたような圧力で、あばら骨がミシミシと音をたてた。
ロシア語は結局よくわからなかったが、「ダズヴィダーニャ(さよなら)」「スパコイノイノーチ(おやすみ)」など、別れの言葉は妙にやさしく、女性的な響きで心地よいなと思った。
この一週間、一生懸命憶えたロシア語も今日で使う機会がなくなる。
次に訪問するポーランドの言葉は一語も知らないが、どんな言葉なんだろうか。
午前8時25分。アエロフロートのイリューシンという飛行機に乗ってポーランドの首都ワルシャワへと向かう。
ソ連の飛行機はすごいと噂には聞いていたが、耳がおかしくなりそうなほどすさまじい騒音で、おまけに椅子がマッサージ椅子のように振動するという恐ろしい乗り物だった。さらに驚いたことに、空調からはなにやら白い霧のようなものが吹き出している。
しかし、操縦士はなかなか腕が良さそうだ。
しばらくすると、美人だがそっけないスチュワーデスから朝食が配られた。
さきほど、ゴス・コンツェルトの連中に「朝食は機内で出るのか」と聞いたら「朝食の時間はもうポーランド領内だから我々は知らぬ」と言っていたので朝食抜きを覚悟していたのだが助かった。
しかも驚くほど豪華な朝食である。
なんと憧れのキャヴィアが山盛りになって出てきたのだ!
日本に入ってくるキャヴィアは色の黒っぽい小粒のものが多いが、これはやや灰色がかった大粒のものである。
これが噂に聞いた本物のキャヴィアか!と感動してパクパクと食べたが、メンバーの中には「なんか気持ちが悪い」といって手をつけない者もかなりいた。
もったいないのでそれらを意地汚く全部回収して食べていたら、さすがに最後は鼻血が出そうになった。
2時間5分の空の旅を経て、現地時間の8時30分にワルシャワ空港に無事到着した。
モスクワとは2時間の時差があるので、出発時間と到着時間はほとんど変わらない。
ポーランドの英雄、ショパンの名を冠したワルシャワの空港はやはり広かった。
通関を済ませて表に出ると、明るい日差しに木々が輝いている。気温も暖かい。
ポーランドも社会主義国ではあるが、やはりソ連に比べるとずっと自由な空気が流れていて、思わずホッとしている自分がいた。
しかし、ホッとしたのもつかの間、到着早々トラブルに見舞われた。
通関が予想外に早かったため、荷物の確認が完全でなかったようで、メンバーのスーツケースが2個行方不明となってしまった。どうやら機内からピックアップされ忘れたらしい。飛行機はすでにコペンハーゲンに向けて飛び立ってしまった。
紛失物の手配を添乗員に頼み、バスに乗り込む。
西ドイツ製だというそのバスは、ソ連とはうってかわってデラックスで乗り心地がよかった。
ここは、バス、乗用車ともに西ドイツ製かソ連製の物が多いが、駐車場にマツダの車が止まっていたのには驚いた。
通訳は英語を話すエヴァ嬢と、日本語を話すリップショッツ氏の2名。このリップショッツ氏の日本語のうまさには舌を巻いた。
正直、ソ連の通訳の日本語がかなり怪しかったので、通訳には期待していなかったのだが、彼の日本語は完璧だった。
ワルシャワ大学で学んだそうだが、敬語の使い方も心得ているし、しゃれもちゃんとわかる。
あまりにもレベルが高いので、バスの中でメンバーに彼を紹介するとき「リップショッツさんは日本語ペラペラですごいですよ」と言ったら、それを受けて「身に余るご紹介を受けて恐縮です」と挨拶されてさらに度肝を抜かれた。
驚いたことに、まだ日本へは一度も行ったことがないらしい。
(註*後にポーランドの社会主義体制が崩壊してワレサ大統領が来日したとき、彼が通訳として随行しているのをテレビでみかけた)
この日の宿泊地である「ホテル・ワルシャワ」に到着。
パガートオフィス(やはり国営のマネージメントオフィス)の係員と会う。
この男はソ連式の役人のような態度はまったくなく、ごく普通の興行師といった感じだった。
ホテルはこれまた普通のホテルだったが、食事はやっと人間の食べ物にありついたような気がする。
100ズロティ(約1,400円)の小遣いを手にして街へ出かけた。
ソ連に比べると、人々の服装のセンスが格段によく、長髪族まで存在する。
絵ハガキを売っている店を見つけたが言葉がまったく通じなくて参った。英語もドイツ語も相手にされず、ついに筆談(絵や数字)を駆使してハガキと切手を買うことになった。
合計67ズロティ(940円)は少々高いような気もするが、言葉が通じなくては手も足もでない。
とにかく早く言葉を覚えなければ…。
リップショッツ氏をつかまえて「ジェーン・ドーブレ(こんにちは)」「ジェン・クイエ(ありがとう)」「ゴロンツア・ヴォター(熱湯)」などのポーランド語を教わって、さっそくメンバーに伝える。
午後は、エヴァ嬢の案内でオペラハウスの方へ行ってみる。
ポーランドの歴史は被侵略の歴史であると言われているが、その傷跡は彼らの心の奥深くに残っていて、民族の誇りが高く、強く、しかも屈折しているようである。
特に、ナチスに対する憎悪はワルソーゲットーからアウシュヴィッツの悲劇まで、消すことのできない刻印となっている。
ナチスの暴挙に対する憎しみを忘れないようにするためか、街なかのあちこちにわざわざ戦渦の跡が残されていた。
その一方で、現在の支配者であるソ連に対してもかなり強烈な反発心を持っているようで、彼らの言葉の端はしにそれを感じた。
(註*もともとポーランドとロシアは仲が悪いが、ポーランド国民の中に決定的に残っているしこりは、ポーランド蜂起でソ連の裏切りにあったことだろう。しかし、このときはまだソ連の支配下にあったため、おおっぴらにそのことを口に出すことができなかったのだ。
市の中心には、「スターリンの贈り物」と言われる例のスターリン様式の文化宮殿があるのだが、ワルシャワの市民達は、パリのエッフェル塔ができた時にモーパッサンが言ったといわれる皮肉を利用して「ワルシャワで一番景色の良い所は文化宮殿の屋上である。なぜならば文化宮殿が見えないから」というジョークを必ず外国人に聞かせるらしい。
夕方になってパガートオフィスから、「今夜のオペラのチケットが2枚あるので誰か行かないか?」と言ってきたので、天春(あまかす)さん(註*保健担当としてツアーに随行した聖路加の看護師さん)と一緒に出かけることにした。
オペラの演目はヴェルディの『トロヴァトーレ』であったが、ポーランド語の『トロヴァトーレ』はどうもしっくりこない。
劇場は4〜5年前に復元された立派なものであるが、演奏の方はレパートリーシステムの悪い面が出ていて、ややマンネリ化しているように見えた。
特に男声陣は残念なできばえだった。
休憩時間に、タバコとチョコレートを買い、コーヒーを立ち飲みする。
ここへ来てから言葉が混乱していて、英語、ドイツ語、ロシア語など思いついた単語を手当たり次第めちゃくちゃに混ぜて使っている状態だったが、これでもなんとか買い物ぐらいはできそうである。
プログラムは10ズロティ(140円)という値段のわりには立派なものである。
ポーランドは貧しいとはいっても、ソ連と比較するとけっこう消費的な生活をしているように見えた。
同じ社会主義でも、ポーランドはヨーロッパ人としての誇りを強く持っている民族であることを感じた一日だった。