10月1日(木)──曇り
行 程 |
7:00 レニングラード到着
午後→リハーサル
19:30〜本番(2回目)
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演奏会 |
フィルハーモニー・ボリショイ・ザール(レニングラード)
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宿 泊 |
ホテル・ヨーロッパ(レニングラード)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦)
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行 程 |
7:00 レニングラード到着
午後→リハーサル
19:30〜本番(2回目)
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演奏会 |
フィルハーモニー・ボリショイ・ザール(レニングラード)
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宿 泊 |
ホテル・ヨーロッパ(レニングラード)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦)
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夢心地でうつらうつらしていると、突如ドンドンとコンパートメントのドアを叩く音が聞こえてきた。
ドアの外でニコライおやじが何かわめいている。
しかたなくドアを開けると、すでにコートを着込んで準備万端のニコライおやじが、鴨居のあたりからヌーッと顔を出して「レニングラード!レニングラード!」と連呼している。
時計を見ると6時50分。
やっぱり時刻表通りに着くんじゃないか!
あわてて着替えてメンバーをたたき起こす。
日頃の訓練の賜物で、皆、秩序正しく機敏に動いてくれたのでなんとか無事にレニングラードのモスクワ駅に降り立つことができたが、まったく人騒がせもはなはだしい。
モスクワとレニングラードでは時差もないはずだから、完全にニコライおやじの思い違いだと思うのだが、本人は謝るでもなく、メンバーの機敏な行動を「オーチン・ハラショ(すばらしい)」とのんきに賞賛している。
夕べからこのおやじの言うことだから信用できないとは思っていたが、「やられた!」という気分だ。
外はまだ薄暗かったが、気温は思ったより暖かいようだ。
レニングラードは、1918年に革命が起きるまでロシアの首都が置かれていた街だ。
ロシアの首都はもともとはモスクワだったのだが、18世紀初頭、ロマノフ王朝のピョートル大帝が「ヨーロッパの文化国家」の仲間入りをしようと人工的に運河の上に作ったのがサンクトペテルブルク──今のレニングラードだ(運河の上に作った人工的な街ということで「北のヴェネツィア」と呼ばれることもある)。
たしかにモスクワに比べるとぐっと西欧風な街で、ようやく「ヨーロッパに来た!」という気分になった。
ロマノフ王朝が倒され、ソビエト連邦となってからは首都が再びモスクワに移るわけだが、首都になったがゆえにモスクワの古い建物はことごとく壊されてしまった。
一方、首都でなくなったことで、サンクトペテルブルクは古い建物がそのまま保存されることになった。
ソ連政府もこの街の保全にはかなり力を入れているようで、戦災復旧も、他の街をさしおいてもこの街を最優先にしたという。
なるほど、市街地には近代的な建物はいっさいなく、18〜19世紀のロマノフ王朝時代の佇まいをそのまま残している。日本でいうと「京都」のような感じだろうか。
江戸時代後期(1782年)、アリュシャン列島に漂着した大黒屋光太夫が、ロシア大陸を横断してこの街までたどりつき、苦難の末にエカテリーナ二世に謁見して9年半ぶりの帰国を許されたという話を思い出した。
きっと光太夫が見た風景も今とあまり変わらなかったのではないだろうか。
モスクワ市内に流れていた重苦しい空気はここにはなかった。街行く人々も、西ヨーロッパの観光客が多いせいか、雰囲気が洗練されている。
ホテルに着いたとたん、休憩を先にするか、朝食を先にするかでまたひと悶着あったが、トーサイ自らやりあって、朝食を先にさせることになった。
ここへきて、我々もようやく学んだ。日本人の奥ゆかしさはここでは通用しない、と。
今後は向こうの言いなりにならずに強気で交渉する…という方針でいくことにした。
レニングラードの宿は「ホテル・ヨーロッパ」といって、演奏会場のフィルハーモニー・ボリショイ・ザールの向かいにある。
古風ではあるが格式を感じさせる建物で、食事も西欧風でなかなかうまい。
(註*ここで現在のホテルのフォトスライドショーが見られるが、今では全面的に改装されて街で一番の高級ホテルになっているようだ)
とはいうものの、飲み物の質に関してはやはりモスクワと変わらなかった。
ロシアで特に閉口するのは砂糖だ。
ナフタリンのような半透明のデコボコしたもので、これが並大抵のことでは溶けないのである。
3〜4個、チャイに放り込んで辛抱強くスプーンでつついても溶解度は50パーセントくらいである。
サンクトペテルブルク
サンクトペテルブルクの意味は「聖ペテロの町」。ペテロをロシア語にすればピョートルなので、ピョートル大帝は自分と同じ名前の聖人に思い入れを持ったのかもしれない。街の名前がドイツ語っぽいのも「ヨーロッパ風」をめざす心意気の表れだろう。しかし、第一次世界大戦でドイツと戦争状態になると、ドイツ語風の名前が嫌われて一時的に「ペトログラード(ピョートルの町)」というロシア語読みに改称されてしまう。さらに革命後はロマノフ王朝のしるしを消すために「レニングラード(レーニンの町)」という名前に改称。さらにさらに、今度はソ連も崩壊すると、住民投票でもとの「サンクトペテルブルク」という旧姓に逆戻りしたという経緯を持つ。住民投票というところが興味深い。結局、首都だったロマノフ朝時代がこの町の一番の栄光だったという思いがあるのだろうか。(2012.10.01)
今回はホテルの真向かいが演奏会場だったので非常に便利だった。
レニングラード・フィルハーモニーの定期会場であるフィルハーモニー・ボリショイ・ザールは、収容人数1800名のとても立派なホールで、豪華なシャンデリアがまばゆいばかりであった。
リハーサルを経て午後7時半に開演。プログラムはモスクワの初日と同じもので、ヘンデル『コンチェルト・グロッソ』、モーツァルト『ディヴェルティメント』、ヴォルフ『イタリアン・セレナーデ』(以上3曲は斎藤秀雄指揮)、チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』、小山清茂『アイヌの歌』(以上2曲は秋山和慶指揮)の5曲を演奏した。
ホールが立派なだけではない。ここの聴衆は本当に暖かく、なごやかで、すばらしい空気を作り出してくれた。
ソ連の演奏会では本番中も客席の明りを落とさないため、聴衆の微笑みがステージまで伝わってくる。
その助けもあって、今夜の演奏は最上の出来となった。
満員の聴衆は熱狂し、メンバーがステージから去って照明がおちてもなお拍手が鳴り止まず、指揮者が何度もアンコールに応えなければならないほどだった。
東京交響楽団の名誉客演指揮者として日本でも知られている、アルヴィード・ヤンソンス氏(レニングラード・フィルハーモニーの指揮者でマリス・ヤンソスの父親)も楽屋を訪ねてきて、大げさな身振りで激賞してくれた。
良いホールと良い聴衆が演奏家の力を最大限にひきだすのだということをしみじみと実感させられた一夜だった。