10月7日(水)──晴れ
行 程 |
午前→市内観光
午後→自由行動
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演奏会 |
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宿 泊 |
ホテル・ワルシャワ(ワルシャワ)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
1ズロティ=約14円(ポーランド)
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朝のうちは薄曇りだった空が、午前10時頃にはすっかり晴れた。ここまで気持ちよく晴れたのは旅行に出て以来初めてかもしれない。
昨夜の強行軍の疲れを癒すために朝食は11時にしてもらう。
その後、指揮者とスタッフでポーランド国際文化振興局まで挨拶に出かけた。
このところ、ワルシャワでは日本の音楽家の来演が増えていて、桐朋学園の出身者で編成されている東京クワルテットも最近演奏会を行い、大成功したらしい。
パガートオフィスの親分は、「ジュリアード・クワルテットより優れたクワルテットだった。一昨日の演奏会も大好評だったし、この調子だと今日から始まるショパンコンクールも日本人が上位を占めるのではないか」などと調子のいいお世辞を言っていた。
(註*なんと彼の予言通り、この年のショパンコンクールでは内田光子が2位入賞をはたすという大快挙を成し遂げた!これは日本人として最上位の記録であり、いまだにこの記録を塗り替える日本人は出ていない。ちなみに1位はギャリック・オールソンだった)
ポーランド国際文化振興局からは、レコードやポーランドの現代音楽の楽譜などを贈呈された。少々荷物になるが、貴重な資料なので、学校の図書館へ持って帰らなければなるまい。
ポーランド国際文化振興局との懇親会。右端から秋山氏、斎藤夫人、トーサイ。トーサイと向かい合っているのが名通訳リップショッツ氏。
ショパンコンクール(2)
ショパンコンクールの入賞者は、最初のうちほとんどがソ連とポーランドの演奏家で占められていた(入賞者の数は年によってまちまちだが、1960年以降は6名で定着)。
特に極端だったのは戦後初めておこなわれた1949年のコンクール(第4回)で、上位13人がすべてソ連とポーランドの演奏家だった。
初めてショパンコンクールに出場した日本人は原智恵子。1937年(第3回)のことである。
このとき彼女は15位だったが、入賞は13位までとされ、「前回は15位までが入賞だったのになぜだ。おかしい!」と聴衆が騒いで警官が出動するほどの事態となり、急遽「特別聴衆賞」なる賞が与えられて収まったという逸話がある。
このように、ショパンコンクールは毎回のようになにかしらの騒動やスキャンダルがつきまとうことで有名である。
1955年(第5回)には、横並びの激戦の末、田中希代子が10位入賞を果たしたが、審査員の一人が「1位がアシュケナージで2位が田中希代子だろう」と異を唱え、ついにサインを書かずに途中退席してしまったという事件が起きた(このときのアシュケナージは2位だった)。またまた日本人がらみである。
1965年(第7回)には中村紘子が4位入賞(このときの1位はアルゲリッチだった)。そして1970年(第8回)で内田光子が2位入賞…と続く。
中村紘子と内田光子はいずれも「子供のための音楽教室」出身者である。(2012.10.07)
午後は2台のバスに分乗して観光に出かけた。
私の乗ったバスでは、派手な赤いコートを着た60がらみのおばさんが、強烈ななまりのある英語でガイドをしていたが、何がなにやらさっぱりわからず、おまけにやたらとせかせか歩くのでついていくのが大変だった。
ワルシャワで一番の見どころはなんといっても「旧市街」だろう。
第2次世界大戦中、ナチスドイツへの抵抗(ワルシャワ蜂起)が失敗に終わり、その報復として徹底的に破壊しつくされたワルシャワの街だが、昔の写真や絵をもとにワルシャワ市民の手によって「壁のひび一つ」にいたるまで正確に復元されたという。
それがこの旧市街エリアだ。
まずはこのエリアを散策し、そのあとにナチスドイツ軍の残虐行為を撮影した記録映画を見せられた。
再び旧市街に出ると、破壊から再生へむかうワルシャワ市民の不屈の精神と文化に対する誇りがより強く感じられた。
次に、ショパンの像がある有名なワジェンキ公園を訪れた。
おりしも紅葉の美しい季節で、すばらしい風景を満喫した。
子供を連れた母親がのんびり散歩をしている姿もとても自然で、久々に心が潤ってくるような時間を過ごすことができた。
観光が終わったあとはショッピングタイムとなった。
ワルシャワでの本番が放送になったようで、その出演料が思わぬ臨時収入となって転がり込んできたのだが、共産圏では現地通貨の持ち出しが禁止されているため、ここで使ってしまうしかない。
結局皆で分配して買い物をすることになったのだ。
ここの物価は高いのか安いのかわかりにくい。
食料品などの生活必需品は低く抑えられているのだが、我々が必要とするお土産の類は非常に高いのだ。
安くて、軽くてかさばらなくて気のきいたもの。そんなものはなかなか短時間では見つからないので、結局私は何も買わないで終わってしまった。
ポーランドの女性は比較的小柄で美人が多い。しかも、まだあまり外国人(特に東洋人)が出入りしていないためか、可愛い女の子が振り返って我々をじろじろ見たりするので落ち着かなかった。
これで第2の訪問国での公演も無事終わった。
我々も多少旅に馴れてきたせいか、ソ連よりはリラックスできたような気がする。