この旅行から4年たった1974年9月18日未明のことーー。
雨音を聞きながらうつらうつらしていた私は、電話のベルの音で反射的に飛び起き、ある重い覚悟を持って電話に出た。
それは……予期した通り斉藤秀雄教授の逝去を知らせるものだった。
1970年のツアーを終えたあと、斉藤教授の目はアメリカに向けられた。
ヨーロッパツアーで手応えをつかんだ彼は、今度はアメリカで桐朋学園の実力を披露したいと考えていたのだ。
その悲願は、「1974年10月23日の国連デーにニューヨーク国連大会議場で演奏してほしい」という依頼が舞い込むことによってにわかに現実になりつつあった。
しかしそのときすでに、病魔が斉藤教授の身体を蝕みはじめていた。
思えば、1970年のツアーのときから決して体調はよくなかったのかもしれない。
1974年夏。
毎年志賀高原で強化合宿がおこなわれていたが、斉藤教授の病状はかなり深刻な状態にまで進んでおり、今年の参加は無理だろうと誰もが思っていた。
しかし、アメリカツアーを目前にして、いてもたってもいられなかったのだろう。東京から志賀高原までの道のりを、車の後部座席に横たわりながら移動し、斉藤教授は合宿先に姿を現した。
それから3日間、斉藤教授は文字通り「死力を尽くして」生徒たちの指導にあたった。
合宿最後の夜には、志賀高原天狗の湯の宿泊客を招いて恒例のコンサートがおこなわれた。
このときの演奏が斉藤教授最後の指揮となった。
曲目は、彼が最も愛したモーツァルトの『ディヴェルティメント K136』。
いつもは「斉藤式」と呼ばれるきびきびした指揮をおこなう斉藤教授だったが、この日の指揮は今までに見たことがないような慈愛に満ちた穏やかなもので、メンバーたちも斉藤教授のほんのわずかな動きも見逃すまいとするかのようにぴったりと寄り添い、泣きながら演奏していた。
コンサートが終わったあと、宿泊客の一人が「あの曲は別れの曲ですか?」と聞いてきた。
もちろん、『ディヴェルティメント(嬉遊曲)』だから本来は明るく軽快な曲であるべきなのだが、この状況でそのように演奏することは我々にはとてもできなかった。
これ以後、斉藤秀雄を偲ぶサイトウ・キネンオーケストラでは、しばしば『ディヴェルティメント』を演奏するようになったが、この曲は「最後の夜」の思い出と濃厚に結びついている。
だからこの曲を演奏するときだけはメンバー全員が師を求める生徒の顔に戻り、センチメンタルな演奏になってしまうのである。
合宿の後、アメリカへの演奏旅行の準備は着々と進められていった。
国連デー以外のアメリカ各地の演奏旅行についてはコロンビア・アーチスト社というアメリカ最強のマネージメント会社が請け負っていたが、この交渉が予想以上に難航したため、急遽下見を兼ねてアメリカまで出向くようにという命令が私にくだった。
斉藤教授の訃報が届いたのはその出発当日のことだった。
電話をおいて、私は10日前の出来事を思い出していた。
あの日、斉藤教授に「話があるから」と呼び出され、お宅へ伺った。
そのときはもう衰弱してすで頭をあげていることもできない状態だったのだが、「桐朋学園のこと」「オーケストラのこと」「自分が一生をかけて築き上げてきたメソッドのこと」について自らの思いを必死に語り、「ちゃんと伝統を受け継ぎ、守ってくれる人がいるだろうか?」と学校の行く末を心配し、最後に「よろしくお願いします」と私に頭を下げられたのだ。
「あのトーサイが?!」と目を疑った。
私に頭を下げるくらいなのだから、おそらく他の人にも同じことをしていたのだと思う。
それほど自分がいなくなったあとの学校のことが心配だったのだろう。
たしかに斉藤教授のような指導者はそうそういるものではない。代わりになれる人などいないだろう。
私がいつも舌を巻く斉藤教授の能力。
それはメソッドを体系化する分析能力(この能力が発揮されたのが『指揮法教程』という世界にも類をみない指揮法の教科書執筆である)と、それを生徒に教え込む際に使う表現の多様さである。
「『わかる』ということと『できる』ということは違う。『わかった』という生徒を信用してはいけない。その間をうめるものが『練習』である」
「好きなものを一生懸命やることは努力ではない。嫌いなことを克服するためにするのが努力である」
といったいわゆる「斉藤語録」は数多い。
私自身、ずっと教師をやっていて「本当にその通りだ」と実感することばかりだ。
しかし、それこそ「わかる」と「できる」はべつなのだ。
語録をお題目のように唱えているだけではそれは「絵に描いた餅」にしかならない。
斉藤教授は唱えるだけでなく、生徒ができるようになるまで導くことができる「ノウハウ」、そしてなによりも「根気」と「情熱」を持っていた。
こうして言葉にしてしまうと当たり前のようだが、この三点で斉藤教授を上回れる人に私はまだお目にかかったことがない。
斉藤教授というと、かんしゃくを起こしてメガネを叩きつけて踏みつぶしたとか、譜面台をひっくり返したなどという逸話ばかりが有名で、「怖い」「気難しい」「近寄りがたい」というイメージが多く流布している。
たしかに彼は妥協を許さぬ厳しい人であった。
しかし、旅行を通して私が感じた斉藤秀雄という人物は、同じくらいシャイなロマンチストの一面を持っていた。
分析や理論はもしかしたら照れ隠しなのかもしれないと思ったほどだ。
こんなエピソードがあった。ある日トーサイが私に言った。
「この頃の生徒はだれも私の部屋に遊びに来ないね。昔は『先生!トランプしましょうよ』って言いながら大勢集まってきたのに…」
私は即座にこう返した。
「そりゃ無理ですよ。新入生っていうのは常に18歳なんです。でも教師は毎年年をとっていく。年齢差はどんどん広がる一方なんですから」
とたんに不機嫌になったトーサイに「君は嫌なことをいうね」と怒られたが、今現在、私の年齢はこの会話が交わされた時点での斉藤教授の年齢を遥かに超えている。
いくら厳しくあろうと、生徒には親しみを感じてもらいたいという気持ちが最近はしみじみとよくわかるようになってきた。
このときのトーサイのぼやきを証明するような写真がここにある。
1955年、私たち桐朋学園女子高等学校音楽科の一期生が修学旅行を兼ねて仙台と石巻へ演奏旅行に行ったとき、汽車のなかで撮った写真だ。
まだ「生徒との年齢差が少なかった」トーサイが、けっこう楽しそうな表情でトランプに興じている。
偉大になりすぎた斎藤秀雄のプライベートフォトとしては非常に珍しいものだと思う。
トーサイの教えを受け継ぐ演奏家たちはどんどん世代が若くなっている。
今やあの世へ行ってもトーサイとトランプをやろうなどと言える人はほとんどいなくなってしまったと思うが、この旅行記を形に残すことによって、斉藤秀雄という教育者の底知れぬ情熱が「シャイでロマンチスト」な一面と表裏一体であったこと、語録を血肉にする情熱こそが次代に継承すべき財産であることを記しておきたい。
1955 演奏旅行兼修学旅行の列車のなかで生徒達を相手にトランプに興じるトウサイ
アメリカツアー1974
ツアー日程は10月14日~11月3日の3週間(指揮者は、尾高忠明、国分誠、久志本涼、秋山和慶、小沢征爾の各氏)。
イェール大学・ウーズレイ・ホール(10月16日)、国連会議場(10月23日)、ボストン・ニュー・イングランド音楽院(10月25日)、ニュー・ヨーク・カーネギー・ホール(10月31日)などアメリカ東海岸の主要都市で演奏会おこなう。
イェール大学では、小沢征爾氏もボストンから駆けつけ、斉藤教授の追悼演奏を行い、イェール大学から斉藤教授に名誉あるサン・フォード賞が贈られた。
また、カーネギー・ホールでの演奏会ではアメリカ音楽会の大御所アイザック・スターン氏自らの申し出で、斉藤教授とロシアの大ヴァイオリニスト・ダヴィッド・オイストラフ(やはり1974年に亡くなった)の追悼ためにハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第2楽章』を桐朋学園弦楽合奏団と共に演奏してくれた。
この演奏旅行の反響は大きく、これを機に世界的にも第一級のユースオーケストラとして認められた。
1991年に再度カーネギー・ホール100周年の記念企画で『ユース・オーケストラの祭典』に桐朋学園弦楽オーケストラ(高関健指揮)が招待されたときは、予想をはるかに上回る堂々たる演奏で他を圧し、その実力を世界に示した。
このとき、いろいろと支援してくれたニューヨークのジュリアード音楽院を表敬訪問した際、ヨーゼフ・W・ポリ―シ院長が「1974年にイェール大学で聴いた桐朋学園弦楽オーケストラの演奏は忘れることができないすばらしいものだった」という言葉をかけられて感動した。(2013.02.06)