10月27日(火)──晴れ
行 程 |
午前→バスでヴェネツィアへ移動
午後→リハーサル
21:00〜本番(15回目)
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---|---|
演奏会 |
テアトロ・ラ・フェニーチェ(ヴェネツィア)
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宿 泊 |
スプレンディド・スイス(ヴェネツィア)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
100リラ=約58円(イタリア)
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行 程 |
午前→バスでヴェネツィアへ移動
午後→リハーサル
21:00〜本番(15回目)
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演奏会 |
テアトロ・ラ・フェニーチェ(ヴェネツィア)
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宿 泊 |
スプレンディド・スイス(ヴェネツィア)
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時 差 |
-8時間(東京比)
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通 貨 |
100リラ=約58円(イタリア)
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駅に近いここジョリ・スタツィオーネ・ホテルは、汽笛が山にこだまするため、今朝も早く目が覚めてしまう。
昨日は移動とコンサートで観光がまったくできなかったので、日の出前に散歩に出かけることにした。
駅の向こうに小高い丘があり、教会が見えたので、まずはそこを目指して歩いてみる。
白い息を吐きながら坂道を登って行くと、茶褐色の落ち葉と柱廊が丘の上まで続いた先にモンテベリコ教会が建っていた。
丘の東側は見渡す限り平地で、遠くの森から昇っていく太陽が一面の朝靄を通してくすんで見え、平地に点在する池がキラキラと光っていた。
新鮮な朝の大気を堪能してから、丘を降りて今度は街の方へ行ってみると、パルラディオの設計によるバシリカ・パラディアーナの前へ出た。
ルネサンス様式の長方形の建物だが、均整のとれた美しい姿である。
駅前の公園を抜けてホテルに帰り、温かいカプチーノを一杯飲んで部屋に戻って出発の準備をする。
20キロ用のスーツケース満杯の荷物を毎日のように出したり詰めたりするのも楽な仕事ではない。
今日はバスでヴェネツィアへ移動してすぐに練習、本番という強行軍だ。
水の都として世界的に知られるヴェネツィアは、絵ハガキほどの美しさではないにしても、やはり非現実的なインパクトのある世界だった。
だいたい敵に攻め込まれないためとはいえ、世の中にこれほど非合理的な街があるだろうか。
バスは長い橋を渡った所にあるローマ広場にまでしか入れず、汽車の駅は本土側のメストレ、飛行場もやはり本土側のマルコポーロまでしか入れない。
本来車が走るはずの部分はすべて運河となっているので、交通機関は水上バス、ボートのタクシー、乗り合いのボート・ゴンドラしかない。おそらく世界一交通事故の少ない街だろう。
あとは建物と建物の間の路地と運河にかかる橋を歩いて移動するしかないのだが、狭い路地が迷路のように入り組んでいるため、狭いエリアであってもなかなか直線コースで目的地までたどりつけない。
グランカナル(S字型に流れる大きな運河)を水上バスに乗ってホテルに着く。
スーヴェニールショップが並ぶ路地の一角に入口がある冴えないホテルだったが、内部はヴェネツィアンスタイルで、ウナギの寝床のように奥行きがあって意外に広い。
昼食後、街の中心であるサン・マルコ広場を横切って、フェニーチェ劇場へ練習に出かける。
このオペラハウスもけっこうメジャーで、ヴェルディの『リゴレット』が初演されたことでも有名であるが、行ってみると幅3メートルほどの小道の突き当たりにあり、「え?ここが?」という感じだった。
皆がリハーサルをしている隙にサン・マルコ広場へ行ってみた。
世界で最も美しい広場と言われるだけあって、すべての舞台装置が揃っている見事な広場である。
正面にビザンチン様式の壮大なサン・マルコ寺院があり、その他の三方は回廊になっていて、ヨーロッパ最古のカフェと言われる『カッフェ・フローリアン』や『カッフェ・クワドリ』などが軒を連ねる。
カフェテラスの一角でマネージャーの中筋氏、エージェントの長峰氏、添乗員のシュミット氏がのんびりとコーヒーを飲んでいたので、川崎氏と私も仲間入りする。
広場には観光客相手の絵描きや写真屋、ハトの豆売りがウロウロしている。
サン・マルコ広場といえばハトの多さで有名だが、こうしてみるとたしかにすごい数だ。
最近団体行動にノイローゼ気味の川崎氏が「あぁ、もう私も学校勤めなんて辞めてサン・マルコ広場のハトの戸籍係にでもなろうかなぁ」と言いだしたので、皆で大笑いした。
私も東欧ではノイローゼ気味になったが、なぜかイタリアに入ってからは絶好調!
よほどこの国が性に合っているらしい。
先ほどからサン・マルコ寺院を描いていたへぼ絵描きを数人のアメリカ人が取り巻いて見ていたが、そのうちの一人が「絵を売れ」と交渉をし始めた。
やがて商談が成立したらしく、前金50ドルが支払われたが、絵が売れたとたん、絵描きはさっさと道具を片づけてガールハントをし始めた。
まるで映画『旅情』のワンシーンを見るようであった。
広場の正面右手にある鐘楼の上にエレベーターで登ると、この街の地形が良くわかる。
街に運河があるというよりは、無数の島がひしめき合って海に浮いているという感じだ。
干潟の向こうにはサン・ジョルジョ・マッジョーレ島、リド島、ムラーノ島などが浮かんでいる。
コンサートは午後9時からなので、いったんホテルに戻ることにした。
本番の終演後(11時頃)まで夕食がとれないので中間食をメンバーたちに配給する必要がある。
ハム、ピクルス、パンなどの仕入れを済ませたあと、寸暇を惜しんで今度はゴンドラに乗ってみた。
この頃にはとっぷりと日も暮れ、昼間とはまた違う街の風情を楽しむことができた。
この日の曲目は、モーツァルト『ディヴェルティメント』、ストラヴィンスキー『ミューズを司るアポロ』(以上2曲は小泉紘指揮)、シェーンベルク『浄夜』、小山清茂『アイヌの歌』(以上2曲は秋山和慶指揮)で、今夜も大成功だった。
終演後は、フェニーチェ劇場のオーケストラのメンバーたちもぞろぞろホテルまで付いてきていつまでも帰ろうとしない。
イタリア人の果てることのない情熱には感心を通り越して呆れたが、その中に今フェニーチェ劇場に客演中のスイスの有名な指揮者ペーター・マーク氏もまざっていたのには仰天した。
フールボ
イタリア人というと「明るくておおらかで細かいことは気にしなくて…」というイメージがあるかもしれないが、実は意外にしたたかで商魂たくましい一面を持っている。
そもそもイタリアは都市国家の時代が長く、ひとつの国として統一されたのは19世紀後半とけっこう最近になってからのことだ。
各都市国家はさまざまな勢力の支配を受け、商売をするのに大変な苦労を強いられてきた。
たとえばフィレンツェで財をなしたメディチ家は、利子をとることを法王庁に禁じられていたため、為替差益(当時は各都市国家の通貨もまちまちだった)を利用することによって実質上の金利を稼ぎ、大きな利益を上げてきた。
またヴェネツィアでは地の利を生かして海運業を産業の要としてきたが、積み荷を嵐や海賊に奪われるリスクを回避するため、早くから損害保険制度が確立されていた。
政治的に不安定な状況と、いつ支配者が変わるかわからないという緊張感が、彼らに「お上は信用しない」「他人はあてにしない」「自分の身は自分で守る」というたくましさを身につけさせたのだろう。
こういうキャラクターをイタリアでは「フールボ」と呼ぶ。プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』に登場するタイトルロールがちょうどそんなタイプだ。
意味としては「悪知恵がはたらくこすっからいやつ」といったところか。
日本人の感覚ではあまり言われたくない言葉だが、イタリア人にとっては「褒め言葉」らしい。
当時、イタリアでも車の運転席のシートベルト着用が法律で義務付けられ始めたところだったが、ある抜け目のない男が、シートベルトがプリントされたTシャツを作って売りだしたところ、爆発的に売れて大儲けをしたという。まさに「フールボ」である。
この話には後日談があって、話を聞いた日本の輸入業者がそのTシャツを大量に仕入れて日本で発売したが、まったく売れなくて大損したらしい。「イタリアは左ハンドルだが日本は右ハンドル」ということを念頭においていなかったのだ。このあたりの詰めの甘さが、イタリアのフールボとは似て非なるところだといえるだろう。(2013.02.16)