9月28日(月)──雨
行 程 |
18:00よりモスクワ大学大ホールで演奏会の予定が公開リハーサルに変更になる
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演奏会 |
モスクワ大学大ホール(モスクワ) ※公開リハーサル
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宿 泊 |
ホテル・ロシア(モスクワ)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦)
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行 程 |
18:00よりモスクワ大学大ホールで演奏会の予定が公開リハーサルに変更になる
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演奏会 |
モスクワ大学大ホール(モスクワ) ※公開リハーサル
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宿 泊 |
ホテル・ロシア(モスクワ)
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時 差 |
-6時間(東京比)
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通 貨 |
1ルーブル=約400円(ソビエト連邦)
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朝7時、天気はあまりよくなかったが、川崎氏と2人で赤の広場まで散歩に出かけることにした。
赤の広場の目印となるワシリー寺院はホテルの窓から見るとすぐそばに見えたが、実際に歩いてみると行けども行けどもワシリー寺院の大きさは変わらない。
要するにどの建物もあまりにも大きすぎて距離感がつかめないのだ。
かれこれ15分くらい歩いてようやく赤の広場に着いた。
「赤の広場」といってもべつに色が赤いわけではないし、共産主義の赤とも関係ない。
たしかに「クラースナヤ・プローシャチ」は現代語では「赤い広場」であるが、「クラースナヤ」は古代スラブ語で「美しい」という意味だったので、「美しい広場」というのが本来の意味だ。
しかし、広場の実際の印象はじつに陰々滅々としたものであった。
黒づくめの警官が自動小銃のようなものをかまえながらあちこちに立っているのも緊張を増幅させた。
そしてその大きさたるや……またもや距離感がおかしくなりそうだった。
ワシリー寺院から広場を臨むと、左手にクレムリン、右手にグム百貨店が見える。
赤の広場。グム百貨店からクレムリン方向を臨む。仕事に向かうモスクワ市民たちの姿。
グム百貨店は国営のデパートだが、7時半の開店を待って大勢の人たちが整然と並んでいる。
小雨が降ってきたが、傘をさしている人は一人もいない。
開店と同時に列がどっと動き出した。
私たちも興味津々であとをついていったが、入ったとたんあまりの品物の少なさにびっくりした。
デパートというか、アーケードのような感じで、通路の両側に露店が並び、そこにまた人が並んでいる。
入荷情報でも事前に出回っているのか、行列ができる店はあっという間にできる。
品物は実用品ばかりだったが、それでも年々品物は増えているらしく、中には赤いセパレートの水着なども売られていた。
いったんホテルに戻って朝食を済ませたあと、スタッフの梅津嬢も加わり、3人でもう一度赤の広場まででかけた。
梅津嬢は留学経験があり、日本人としてもおしゃれなほうだったが、気がつくと街ゆく人々の視線が彼女のはいているブーツに釘付けになっていた。
ロシア人は誰もブーツなどはいておらず、みな長靴だった。
若い女性の視線にはあきらかに羨望の色が見えた。
情報統制された彼らにとって、生身の外国人が与える影響はこちらが考える以上に大きいのだと思った。
途中でメトロの駅を見つけた。
地下鉄はモスクワ名物だときいていたので乗ってみることにした。
地元の人のやり方を見ながら5カペイク(約20円)で切符を買い、エスカレーターでホームまで降りる。
このエスカレーターがすごい!
防空壕を兼ねているのか、ホームに着くまでがやたらに深くて長いのだ。そこを日本の3倍はあるのではないかという猛スピードで一気におりていく。勾配もきついし、ガタガタ揺れるので、かなりスリリングだ。
そのうえ薄暗いのでまるで地獄の底に吸い込まれていくような気分だった。
しかし、ホームは一転して宮殿のような華やかさで、駅じたいが美術品みたいだったのには驚いた。
40年目の再訪
この旅行からちょうど40年目になる2010年、ソ連からロシアへと変わったこの地を私は再び訪れた。今度は純然たる観光旅行である。40年でどのくらい変わったのかを確かめたかったのだが、その変貌ぶりは予想以上だった。季節や天気が好対照だったこともあるが、くすんだ風景はピカピカの風景へと一変。グムは観光客がフードコートでファストフードをほおばるショッピングアーケードになっていた。以下、赤の広場の「今」と「昔」を比較できるように並べてみた。(2012.09.28)
いよいよ午後6時に最初の演奏会が始まる。
全員が「いざ出陣!」という緊張感をみなぎらせて迎えのバスを待ったが、これがなかなかやって来ない。
大丈夫か?ゴス・コンツェルト。
なんとなく悪い予感がしてきた。
ようやく迎えのバスがやってきてモスクワ大学へと向かう。
モスクワ大学は、市の南に位置する小高い丘の上に建てられた巨大な建物で、例のスターリン様式といわれる3本の塔がそそり立ったようなデザインである。
真偽のはどは分からないが、何でも一人で全館を掃除すると7年かかるとか…。
今日のバスは空港に迎えきたバスよりもさらにオンボロだった。振動はすさまじいし、止まる度にエンストをおこす。そのうえカーヴで減速せずにクラッチを切るという恐ろしい運転には肝を冷やした。
会場に着いた私たちを待ち受けていたのは、信じられない事態だった。
到着した日に空港から直接運ばれているはずのはずのコントラバス8本と和太鼓が見当たらないのだ。
リハーサル開始予定の午後3時になってもなんの情報も入ってこない。
ゴス・コンツェルトのニコライ氏に「いったいどうなってるんだ。昨日も今日も確認したが『ちゃんとモスクワ大学に運んである』と言っていたではないか!」とつめよったが、「今、調査中だ」と言うばかりで埒があかない。
トーサイの血圧が徐々にあがってきている様子が見てとれた。
そのうちに「楽器はまだ空港にある。今運送の手配をしている」ととんでもないことを言い出した。
トーサイがついにワナワナと震えてヒステリーをおこしはじめた。
しかし、こちらがいくら怒っても通訳を挟んでしまうとのれんに腕押しである。
通訳もロシア人なのでのんびりしたものである。
彼らにとってはこんなことは日常茶飯事で怒るほどのことではないのだろう。
しかたなくさらに楽器の到着を待ったが、1時間以上たってもやはり楽器は着かなかい。
「なぜ空港からこんなに時間がかかるのか。本当に楽器は着くのか」と再び抗議したところ、今度は「トラックが故障したのでいま代車を手配中だ。もう少し待て」という。
悪夢を見ているようだった。
こうなったら最終手段だと「5時になっても着かないのなら我々は本日の演奏を拒否する!」と宣言した。
少しはあわてるかと思いきや、敵はむしろホッとした表情になり、「本日の件は当方の一方的な不手際であるから、演奏会は中止してよろしい」となにやらとてもえらそうな様子で言われた。
言葉の内容とは裏腹に、まるでこちらが不手際をしでかしたような気分にさせられる言い方だった。
交渉とはこういうものなのだろうか。
この時点でトーサイの怒りは臨界に達して蒼白になっていた。
結局5時を過ぎてから楽器は到着したのだが、この2日間、野ざらしになっていた上、相当乱暴に取り扱われたらしく、コントラバスの破損がひどい。
またまた抗議したところ、一応明日までには修理するという約束をしてくれた。
なんだかもうなにもかもが信用できなくなってきた。
とにかく、せっかく楽器も着いたので、明日演奏するプログラムのリハーサルをやろうということになった。
大ホールの入口に回ってみると、今日の演奏会を聴きにきたお客がずらっと並んでチケット代の払い戻しを受けていた。
どうやら入場料は1ルーブル(約400円)らしい。
国営のマネージメントだからこの値段でできるのだろうが、それにしても安い。
驚いたのは、演奏会がいきなり中止になったことについて誰一人文句を言う者がいなかったことだ。
おそらくこういうことはしょっちゅうあって慣れているのだろう。
「中止だ」といきまいたものの、黙々と払い戻しの列に並んでいる彼らを見ていたら、なんだかだんだん気の毒になってきてしまった。
コントラバスはこの状態だし、本番はできないが、公開リハーサルという形にして希望者には中に入ってもらったらどうだろうと提案したところ、みんな「オーチン・ハラショ(すばらしい)」と大喜びしてぞろぞろ中に入ってきた(結局それで6割くらいは埋まってしまった)。
しばらくはリハーサルを続けていたが、昼から待ち通しで我々もさすがにへばってきた。
何か中間食を食べさせてほしいと頼んだところ、すぐさま学生食堂のようなところへ案内され、そこにいたモスクワ大学の学生たちを追い出して我々の席を用意してくれた。
なぜかこの国のお役所は食べ物の手配だけは手際が良い。
30分ほど腹ごしらえをしたあとホールに戻ったら、驚いたことにお客は誰一人席を立つことなくじっと待っていた。
本当にモスクワの市民は忍耐強い。
練習を終えてホテルに帰って来た時は、一同口をきくのも億劫なほどへとへとの状態であった。
最初の演奏会からこんな調子で2ヶ月間も身が持つのだろうか。
遠のく意識の中で疲労と不安が澱のようにたまっていった。