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TOHO見聞録1970 since 2012-08-29

カバーフォト●ワルシャワ・サラ・コンセルトーヴァでのリハーサル風景

はじめに----「トーサイ」と「俺」

 「斎藤秀雄」という名前は、今どれだけの人に知られているのだろうか。

 多くの人にとって、彼の名前は「今や師匠よりもずっとずっと有名になってしまった教え子の小澤征爾氏」を通して、また「毎夏松本でおこなわれるサイトウ・キネンオーケストラに残る名前」として、目に触れるにすぎない。

 たしかに彼は「クラシック音楽界における偉大な教育者」だ。
 創立メンバーとして桐朋学園の礎を築き、当時はまだ珍しかった幼少時からの早期教育を浸透させ、世界に誇れる才能の演奏家を数多く送り出してきた。

 しかし、斎藤秀雄には「教育者」という以上に「開拓者」という称号がふさわしいと思う。
 なぜなら今から42年も前に、こんなにも無謀きわまりない冒険をおこなったからだ。

 1970年秋。
 当時35歳だった若造の私は、嵐のような66日間にまきこまれた。
 トーサイのとてつもない情熱によって。

 トーサイとは、当時学生の間で呼ばれていた彼のあだ名である。
 なんのことはない。サイトウを逆さまに読んだだけなのだが。

 その冒険は1970年9月26日に幕を開けた。
 海外旅行もまだ普及していなかったその時期に、学生オーケストラを率いて東西ヨーロッパ各地で演奏会をおこなうという壮大な計画だった。

 なんの因果か、私はトーサイに同行することになり、時に激突し、時になだめすかしつつ、学生たちの面倒をみながら13カ国31都市をかけめぐった。
 それは想像を絶する刺激的な日々であり、過酷な体験であり、同時に夢のような経験でもあった。

 何度も日本に帰りたいと思ったが、そのたびに「コンチクショウ!」と歯を食いしばりながらくらいついていった。
 帰国時の機中で、トーサイが心細そうに私に言った。
 「今度こういう演奏旅行をするといったらきみはもういやだっていうだろうねぇ」
 その瞬間、心の中で「勝った!」と私は思った。

 これから、その時に一日も欠かさずつけていた日記を公開していこうと思う。
 世界では日本がまだ「東方のちっぽけな音楽後進国」という認識しかされていなかった時代、どうやってこの途方もない快挙を成し遂げたのか。

 あの日から42年たつ9月26日を日記のスタート日とする。


   2012年 喜寿を迎えた夏

村上 綜

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